5日目「"知"について考えていたら、本を読むことを量で測ることに大変な違和感を感じた」
2017.08.30
今日は終日、自分のやってきた研究をスライドにまとめていました(英語で…。)ずっとアパートで引きこもっていたので。だれとも会話することなく。1日が過ぎました。そういう状況だったので、特に面白い出来事はありませんでした。研究スライドは自分の知の原石みたいなもので、それを磨きあげていって、論文になるのかなって個人的には思います。そもそも「知」とはいったい何なのでしょうか?
ケンブリッジ辞書によると
Wisdom(知恵)とKnowledge(知識)のちがい
Wisdom: the ability to use your knowledge and experience to make good decisions and judgments.
(意訳) よい決断・よい判断をするための、あなたの知識・あなたの体験を利用する能力
➡ あくまでも「利用するための能力」
Knowledge: understanding of or information about a subject that you get by experience or study, either known by one person or by people generally.
(意訳)体験や学びでゲットした、あることに関する意味を知ること
➡ あくまでも「知ること(知っている状態)」
UnderstandとComprehendのちがい
Understand: to know the meaning of something.
(意訳)何かの意味を知ること
➡ 知っていればOK
Comprehend: to understand something completely.
(意訳)何かについて"完璧に"意味を知ること
➡ "完璧"にかどうかが大事!
Knowとは何か
Know: to have information in your mind.
(意訳)自分の心の中に情報を持つこと
➡ 自分の心の中にあるってことが大事(外部では駄目!)
コトバンクによると「知」というのは、
物事の本質をしる。対象を心に感じ取る。
とあります。
Knowの定義に「mind」という言葉があるので、分かりやすいですね。心で感じ取れているかどうかって凄く大切なんだなって思いました。 つまり、何かを「頭」で覚えている状態は「知」ではなく「知識」。心で感じ取れているからこそ「知」、本質を理解していなければならない。そう考えると「wisdom」や「comprehend」と相性が良さそうです。「知」は「知恵」と同意義だと思います。
個人的には、論文って著者が発見した「知」を第三者でも再現可能だと証明するための文章だと思います。本当に面白い論文は、それこそ物語りのように読者に語りかけてきます。
僕の恩師である東京藝術大学の須永剛司教授は、本当に「知」というものを操つります。(自分の道具にして、使いこなしています)。目の前で、使いこなすとは、こういうことなんだということを何度も目の当たりにしました。
そのためには、例えば、一冊の翻訳された本を読むことに対しても、分からない日本語表現があれば、英語の原書に立ち戻り、英単語を調べます。その英単語の意味が分かりづらかったら、英英辞典で調べています。また、難しい漢字表現が出てきたら、それを大和言葉になるまで分解します。ここまで精読して、はじめて「知」になる(道具化する)んだと気づかされました。
本を読むことは「質」なのか「数」なのか?
社会人になりたての頃、あまりにも知らないことが多すぎて(今も知らないことだらけですが…)とにかく毎日ビジネスを読み漁って居ました。といっても3日に1冊くらいのペースだったので、100冊/年くらいですが…。
ある時に本を読むこと自体が「目的」になってしまっていて、いったい何のために本を読んでいたのか分からなくなったこと。たった1ヶ月前に読んだ本の内容を覚えていなかったこと。「その話、知ってる、知っている!」オジサン(実際にやったことないのに、事例だけやたら知っている人)になっていたこと。色んな要因が重なって、それ以降、本を読むことを数で測ることをやめました。もちろん、忙しくなって本を読む時間が取れなくなっていったのもありますが…。
それ以降は、現場のデザイン実践に身を委ねながら、気になった本だけ読んでいました。ただし、これもただ読んだだけでした。3ヶ月もしたら忘れていました。もっと言うと学び方が分からなくなっていました。
最初の転機になったのは、初めて自分の論文をデザイン学会に投稿した時でした。「知」っていうものは、インプットだけでなく、アウトプットすることで、初めて自分の血や肉となるのかと実体験として理解しました。
次の転機は、青山学院大学社会情報学部のワークショップデザイナー育成プログラムでの学びでした。学びにも種類があり、従来の「獲得した知識量」を測る学び方の以外のに対して、新しい考え方である「経験した質」で測る学び方があることが分かりました。
3つの学習
弁護士を例に考えてみます。弁護士になるには司法試験に合格し、司法研修所で裁判官・検察官・弁護士の指導をうけ、修了試験に合格してやっと弁護士になります。
まず、法律を勉強するために多くの条文を読み知るための学習が必要です。これを「行動主義学習」といいます。行動主義学習とは「刺激と反応」です。例えば、憲法第9条とは何ですか?と質問された際に「平和主義の規定です。」と即座に返答できる力です。
しかし、これだけでは仕事は成立しません。条文を使って依頼主が抱えている問題を解決してこそ、弁護士は仕事を成し得るのです。そのためには条文の正しい意味や過去の判例などを理解するための学習が必要です。これを「認知主義学習」といいます。認知主義学習とは「知識の獲得」です。なぜ、この条文がその判例に当てはまるのかの理由を依頼主に弁明できる力です。
一方、社会には白黒つかない問題も存在します。例えば、離婚の慰謝料の割合は、話し合いを通して両者が納得できる答え(金額)を創出しなければなりません。このように他社との相互作用を通じて、意味を生成していくための学習を「社会構成主義学習」といいます。社会構成主義学習とは「分かち合い」です。当事者や相手弁護士と話し合いながら答えを導き出す力です。そして、この力こそ社会で求められてる力だと思いました。
ここから、本を読んだら、再解釈して「誰かと一緒に分かち合い、学び合ったり、生活環境や仕事場で活かして、仕事の中で一緒に議論できる」そんな本だけを読むように心がけるようになりました。弊社で月一回のペースで有志で開催している本読み会(任意の本をそれぞれが読んできて簡単なスライドにまとめて発表して、話し合う会)や、M1の前期の大学院でやっていた本読み会(みんなが同じ本を読んで、概説と作者の主張を要約したうえで、自分の体験に紐付けて説明する会)はそのような類だと思います。
そういった経緯から、本を量で測ることはナンセンスだ!と考えるようになりました。自分の中で本に求めることは、本をたくさん読むことで知識を獲得することでもなく、世間一般の流行している良質な本を読むことでもなく、明日からのプロジェクトで活かせそうな本、自分の研究に紐付けそうな本、そして、それを自分の立っているフィールドで分かち合えることができる本だけを手に取るようになりました。そのような本は心に残りやすいです。つまり、「知」になりやすい印象があります。
もし、獲得する知識量の効率を上げたいなら
効率を上げるなら、本を読むのではなく、書評を読んだり、要約文サービス
をつかったり、漫画で分かる〇〇本を見た方が圧倒的に効率的です。それこそ、4時間で読み終わる本の1/10くらいのスピードで終わるとは思います。自分も抑えとかないと仕事上支障がきたす本は、それで済ませています。自分が腰を据えて読みたい本は別のところにあるので。
…ということを考えてしまって、研究スライドづくりに支障がきたし、本末転倒になったのでした。
続く